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レディ・プレイヤー1 [映画]

字幕版 IMAX 3D で鑑賞。かたや硬派な「ペンタゴン・ペーパーズ」を撮りながら、一方でこんなにCG全開、そしてオタク少年魂全開な娯楽SF大作を同時に作っちゃうスピルバーグって、本当に凄い。何なんだこの人は。

都市のスラム化が進み、ヴァーチャル・リアリティのオンラインゲームが普及した2045年、という設定。誰もが架空世界の中でアバターとなって、バトルし合い殺し合うゲームに没頭している・・・と、なかなか憂鬱な気分にさせてくれるディストピアである。
主人公の少年は、そのヴァーチャル世界内で最上ランクに位置する凄腕のゲーマーなんだが、現実世界ではまるでパッとしない。しかしゲーマー仲間と一緒になってそのゲーム世界の覇権争いに参戦していく中で、その熾烈な争いが彼の現実世界にも大きく侵食していく、という、まあ有りがちなオタク=ヒーローの主人公設定、と言える。

ゲームの世界に仮託した、強大かつ獰猛卑劣な大資本に立ち向かう底辺層の主人公、という本作の骨子は明確で、それはつまり、クリエイターの世界を支配し莫大な富を得んとする大企業/金持ちに相対する、俺たちオタク・クリエイター(=スピルバーグ)のレジスタンス宣言である。もちろん現代アメリカの極端な格差社会が下敷きになっているのは言うまでもない点で、今のトランプ政権をダイレクトに風刺した内容の「ペンタゴン・ペーパーズ」の表裏というか、性格の真逆な兄弟のような映画。私は観ていて思わず胸が熱くなった。

個人的には、AKIRAとガンダムが嬉しい。特にガンダム、AKIRAのように広く海外でも浸透してほしいと思う。

個人的評価 4.5点/5点満点


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In da house (1日目)@ 旧グッゲンハイム邸 2018-4-20 [音楽]

しばらくザ・なつやすみバンド(TNB)のライブを観てないな〜、ということで、寒い冬の間、彼らのひさびさ関西ライブであるこの日が来るのを、実は密かに心待ちにしていたのでした。

二日間の日程で、TNBの出演は1日目。他には空気公団、テニスコーツ、東郷清丸、NRQなど、個人的に観たいアクトが1日目に集中しており、私はこの日だけの一日券。ちなみに2日目は片想い、三田村管打団、cero高城氏の新バンドなど。

この日は本当に気持ちが良いほどの快晴で、本格的に寒いの今日で終了!という感じの日。絶好のフェス日和と言えた。
タイムテーブルは当日まで非公開。開演時刻を少し過ぎた辺りで会場に到着し、トップバッターで既に演奏中だったのはNRQ。制作し終わったばかりという新作からの曲も披露されつつ、クールな「ボストーク」はじめ、熱い演奏にオーディエンスも熱い歓声と拍手で応える。

ライブが終われば、ステージのある部屋の扉が閉ざされて、その中でセットチェンジ。その間はお客さんは、会場の中庭で出店しているオシャレなフード/ドリンク関係のブースで、フェス気分を満喫。旧グッゲンハイム邸の階段を初めて上がってみた。2階のテラスからは快晴の塩屋の海が一望。ああ、天気も最高だし、何か適度にユルくって、素晴らしいわこのフェス。

二番手の東郷清丸は、バンド編成でずっと観たかった人。サポートのドラムとベースを率いての3ピースバンド体制、ドラムは何とあだち麗三郎。軽快かつファンキーなリズム隊が素晴らしく、それに乗っかる東郷氏の、永積崇を彷彿とさせる天性のボーカルセンスとカッティングギターも実に気持ちがいい。フレッシュなファンク・ミュージック。めちゃくちゃかっこいい3ピース。「サマタイム」「Super Relax」「ロードムービー」などキラーチューンも軒並み披露。コレを見る事が出来ただけでも、今日来た価値があった。

その次のyumboは初めて聞くバンドだったけど、コレがまた素晴らしかった。楚々とした女性vo.の歌の世界に寄り添う、ピアノとドラムを核に、ギター、弦楽、金管楽器が音を重なり合わせる楽団スタイルのバンド。一聴して地味ながら、惹きつけてやまない何かが確実にそこにある。何というか、路傍の花のような力強さと美しさ。日々の生活に根差した音楽に宿る至高。しかもそのバンド名が、何ゆえyumbo。TNBの中川さんとシラさんが2曲参加、そしてテニスコーツの二人も1曲参加。その曲ではさやさんがヴォーカルを取り、yumboのヴォーカルさんとはまた違った柔らかい感じが極上であった。

ザ・なつやすみバンドは、たぶん1年以上ライブを観ていない。そうなると、2016年の夏の大阪ワンマン以来ってことか。「せかいの車窓から」で始まったこの日のライブは、新曲メインのセットリスト。新作が待ち遠しい。バンドやろうぜ的な新曲が特に良かった。アレンジを変えた「スパサマ」では、相変わらず中盤の「毎日が夏休みだったら、いいのになあ」のキラーフレーズに、フッと感傷的な気持ちにさせられてしまう。その叶わない願いの、無邪気さと切なさに。
そういや、彼らの初映像作品であるライブDVDが、彼らのライブ会場限定で昨年から発売されていて、そのDVDをゲットすることもこの日の私の主な目的の一つなのであった。ようやくゲットできて嬉しい。

この日の空気公団は、サポートドラムのオータコージさんがいない、メンバー3人だけのライブ。山崎ゆかりさんの歌の世界、日常に根ざした彼女の歌が放つポエジーは、実はバンドの編成とはあまり関係が無いなあ、とつくづく感じた。まあでも次は、生ドラムを効かせたバンド編成で聴きたい。一曲、中川さんとシラフが参加。

初めて見るSTUTSは、この日のイベント名を一人で背負うかのようなダンスミュージック。まだまだ元気な若者たちをロックさせていた。私はそろそろいい感じに疲れてきて、踊る人たちを横目で見ながら、早くも素晴らしい1日が終わった時に感じる心地よい充足感に包まれていたのですが……だがしかし、この日の最高の音楽体験は、このあとだった。

トリのテニスコーツ。最後の彼らだけ野外でのライブパフォーマンス。暗くなり始めた中庭という空間で、中庭に集まったオーディエンスと向かい合うように、地面から一段高い縁側に腰掛けた二人。まるで近所からふらりと現れたような佇まいである。そして何気なく始まったアコースティックライブ。さやさんの柔らかな歌声と染み渡るようなピアニカ、植野さんの優しくて素敵なアコギと歌声。

彼らの音楽と共に聞こえてくる、ドップラー効果を効かせた電車の通過音、急き立てるような踏切のサイレン、風に流された塩屋駅のアナウンス。あるいは、家路を急ぐ夕暮れの海鳥やカラスたちの鳴き声。塩屋というロケーションで鳴っている日常的な環境音が、この日のテニスコーツの音楽の一部と化しているような感覚。ふと振り返ると、一心に彼らの音楽に耳を傾けるお客さんたちや出演者たち。多分、同じことをみんな考えている。このライブ、特別すぎやしないか?

そして、目の前で演奏しているテニスコーツは、不意にヒップホップに挑戦し微笑ましい雰囲気を作り出し、かと思えばPerfumeの曲を激アツなアコースティックアレンジで披露して喝采を浴びていた。自由でアーティスティック。

この日の旧グッゲンハイム邸は、塩屋という山と海に挟まれた日常空間の中に出現した、束の間の非日常的音楽空間で、その結界の外には、この町の日常と生活が普通に広がっている。建物の外側でプレイしたテニスコーツの二人は、結界の中と外を結びつけ、この街の日常の景色の中に、音楽の奇跡を溶け込ませた。この日の光景はきっと忘れないと思う。

アンコールでは、ゑでゐ鼓雨麿さんも飛び入りで一曲参加。そして最後は、マイクを使わずに生声と楽器の生音で「月の音」。断言してもいいけど、この日この場所にいた人たちは、みんなハッピーな気持ちで1日を終わらせたと思う。
最後の最後でテニスコーツに持ってかれてしまった1日。



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ジュマンジ ウェルカム・トゥ・ジャングル [映画]

ジュマンジ、前作も観た気がするけど、あんま覚えてない・・・。本作は本格派のエンタテインメント作品。子供の頃、日曜洋画劇場かなんかで初めてハリウッドの洋画を観た時のワクワクを思い出した。「インディ・ジョーンズ」「グーニーズ」あたりの。

女子高生の役にジャック・ブラックを起用できたことが本作の最大のヒット。あとやっぱりドウェイン・ジョンソン。今、心優しきタフガイを演じれば、もはや右に出るものはいない男。彼はコメディセンスが良いのである。そして、彼を見ているとなんか落ち着くのである。基本、無敵だし。

サイの大群に襲われたり唐突にバイク軍団が出現したり、脈絡がないのも「ゲームの世界だから」で何となく、まあいいや、って思っちゃう。「ゲームの世界」設定は便利だ。

個人的評価 4点/5点満点


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それぞれのシネマ、楽日、イリュージョニスト [映画]

京都みなみ会館が3月末で閉館した。正確に言えば、移転先(発表まだ)で営業再開するまでの、一時閉館である。

閉館前の1ヶ月間における特別企画目白押しのスケジュールは、疾風怒濤と言いますか、軽く常軌を逸していた。まさに最後のお祭り。ミュージシャンと映画の対バン企画「マッチアップシアター」、「カナザワ映画祭 in 京都みなみ会館」、「京都みなみ会館さよなら爆音上映」、そして京都みなみ会館と言えば、な、週末のオールナイト(毎週)に「市川雷蔵映画祭」、怪獣映画特集も。そして閉館1週間前の全38作さよなら興行。とにかく、気合の入りまくった、最後まで全力疾走の1ヶ月間のプログラムだった。カナザワ映画祭は行って見たかったなあ。

移転するまでの一時閉館とは言え、あのパチンコ屋(いつのまにかパチンコ屋は閉店していたけど)の2階、あの狭い階段を登った2階に広がる、あのどことなく昭和の面影を今に残しているロビーの空間、狭いトイレ、これまでこの映画館を訪れた俳優達や映画監督達のサインで埋め尽くされた緋色の扉、独特のスロープ構造を持つ観客席。そんな愛着の染み付いた京都みなみ会館という空間は、その歴史に一旦幕を閉じた。

もちろん、看板とスピリットが引き継がれていく限り、歴史が断絶してしまう訳ではない。場所は場所でしかない。建物の老朽化をはじめ、様々な事情を考慮した上での経営判断なんだろうし、例えば階段でしかアクセスできない点なんか、バリアフリーの観点からは結構致命的な欠点だったと思うし。
ファンとしては、新しい場所での営業再開を心待ちにするばかりである。

私が映画にハマったのは、間違いなくこの映画館のせいである。正確に言うと、この映画館とMOXIX橿原の2館のせいであり、この映画館で出会った「ジョゼと虎と魚たち」「血を吸う宇宙」「トーク・トゥ・ハー」の3作品、そしてMovix橿原で出会った「ブルークラッシュ」という作品のせいである。
ハワイを舞台にした青春サーフィン映画である「ブルークラッシュ」では、映画館で映画を体験することのディープな疑似体験性の快楽を知り、みなみ会館で観た3作品では、「ジョゼ」では映画という時間に身を委ねることの心地良さと胸のざわめきを、「血を吸う宇宙」では何でもいいんだ面白けりゃ、という映画の自由さを、そして「Talk To Her」では自分の想像やモラルを超えたストーリーテリングがもたらす衝撃や余韻の深さを、私は知った。

徐々に様々なジャンルを横断するように映画館で映画を観るようになった。とにかく気になった映画があれば実際に劇場に足を運び、お金を払い、暗闇の中で椅子に身を沈め、目の前の大きなスクリーンに広がる世界に身を委ねるのである。そうしないと、その映画が自分にとって傑作なのか凡作なのかどうかは分からない、という単純な思い込みは、そのうち確信となった。壮大な宝探しの感覚。それはジャンルも国もあまり関係なかった。
映画館で自分にとっての傑作と出会うことの楽しさは、京都みなみ会館というハコで見つけた小さな宝物であり、だからこの場所を勝手にホームグラウンドのように感じた。

ちなみに、Movix橿原の方は、地方における映画館の衰退の波の一例というか、2014年にクローズ。しかし2015年末に4DXを有するユナイテッド橿原として復活し、今も営業継続している。奈良で割とマニアックな映画を上映していたりするので、たまに行く。(相変わらずお客さんが少ないので心配ですが・・・)

最終週のさよなら公演のプログラム、私も数本、これぞ!と思った作品を選んで観に行ったのだけど、中でも、最終日のラスト3本、「それぞれのシネマ」、「落日」、そしてシークレットの最後の作品、を続けて観ることができた事は、この空間に対する惜別の気持ちを自分の中で一区切りするうえで、本当に良かったと思う。

この日は土曜日ながら仕事で、仕事が終わった午後に職場からみなみ会館に直行した。
開演時間直前に到着し、既に満席状態だったので立ち見での鑑賞となった「それぞれのシネマ」。

これは世界中の著名な映画監督たちが映画館をテーマに制作した5分程度のショートムービー30数作品を集めた、カンヌ映画祭企画のオムニバスフィルム。日本からは北野武が参加した。とにかく1作1作の密度が濃く、5分くらいの長さでも1つ1つが「私が映画だ!」とそれぞれ自己主張しているような作品で、それがとにかく終わっても終わっても続いていくので、全部見終わった時の疲労感はなかなかのものだった。
個々の作品が終わればそのたびにエンドロールが流れるわけだが、その時に表示される監督の名前を見て、ああなるほどこの人だったか、と思うことが多かったのも面白かった。その最たるものは、アキ・カウリスマキとデビッド・リンチで、この二人に関しては「ああなるほど」ではなく、「やっぱりね」だった。最後に配置されたケン・ローチが、映画そのものをカジュアルに相対化してみせたのも、何か良かった。

言うまでもなく閉館最終日にこの作品がセレクトされたことは、非常に意義深いことだったと思うのですが、それを言うなら、次に上映された「楽日」(これも満席)は、言ってみればその究極的作品である。

「それぞれのシネマ」にも参加した台湾の鬼才ツァイ・ミンリャンによる2003年の作品。過去にも、みなみ会館のツァイ・ミンリャン特集上映の時に上映され、その時に一回観ているのですが、セリフが極端に少ない、全体的に画面がずっと薄暗い、その時は、途中からうつらうつら、記憶も途切れがちとなり・・・今回はバッチリ最後まで観た。

営業最終日を迎えた台湾の場末の映画館、その空間に紛れこんだ一人の日本人の姿を通して、映画館という空間の闇に潜む記憶の塵芥を惜別の念で映し出す本作を、最終日のラス前に持ってきたみなみ会館、まさに快挙である。天晴れ!と言いたい。この後に控える最終上映はシークレット上映、つまりサプライズな訳で、コンサートで言えばアンコールである。従って本作が実質的な最終作品と言っても差し支えないのだ。
実は日本語字幕版が見つからず、台湾にいる監督サイドから英語字幕版をわざわざ取り寄せての上映、とのこと。やはりこの劇場は心意気がアツい。

本作のラスト近く、最後の営業日(楽日)が終了して無人となった映画館の観客席を写し続ける、数分間の長回しに封じ込められた沈黙。そんなスクリーン上の映像を、スクリーンのこちら側にいる満席の私達が、万感の想いで見つめ続ける。かなり面白いことがこの時、京都みなみ会館で起きていた。そのことにかなりグッときた。これはちょっとした奇跡なんじゃないか、と思った。
スクリーンの向こう側にいる亡霊たちが、スクリーンというマジックミラーを通して、目を潤ませたりウトウトしていたりする、みなみ会館の楽日に駆けつけた満席+立ち見の私達を眺めているのでは、という想いに捕らわれたりもした。

ちなみに、本作の中で上映されている昔の中国の武侠映画は、少し前にみなみ会館で観たカンフー映画と同じはず。色々なものがつながってくるもんである。

そしていよいよ、最終上映となったシークレット上映。立ち見の人達にも床に座って観ることができるようにと、クッションがスタッフさんから配られている。
開演前の、満員のお客さんを前にした吉田館長による万感の想いがこもった最後の挨拶のあと、始まった作品は、何とフランス/イギリスのアニメーション「イリュージョニスト」。巡業の旅を続ける老手品師と、そんな彼を魔法使いと信じ込んで旅について行く女の子、そんな二人のハートウォームで少しビターな物語。

シークレットということで、私の事前予想はゴダールの「はなればなれに」だった。だってみなみ会館といえばコレでしょう。タイトルも何か最後っぽいし。といったそんなイージーな予想とかけ離れた意外なセレクトに驚かされつつ、こういう、さりげなく染みわたるようなエンディングでこの劇場の幕を一旦閉じるというのもいいものだな、と思いながら観ていた。この二人の関係性は、この劇場とお客さん(というか私)の関係性になぞらえる事ができるかも、とか思ったりしながら。
ちなみに多分この作品も過去にみなみ会館で観ている。いやこれは別の劇場だったかも。

そして映画が終わって場内が明るくなり、誰もがいままさに終わった時間を惜しむような表情を浮かべながら席を立つ。立ち去りがたい人々が狭いロビーにごった返している中、誰もいなくなった劇場の観客席を最後に一瞥した。そうして、もう二度と登る事はないであろう階段を下り、家路についたのだった。それほど感傷的な気持ちにならなかったのは良かった。

そういや、シークレットは「はなればなれ」ではなくて、「キッズ・リターン」もアリかもな、と思ってたら(あのラストシーンのセリフが、状況にピッタリじゃないですか)、その「キッズ・リターン」が「それぞれのシネマ」の北野武の作品の中で使われていて、ある意味、私の予想が変な形で当たったわけです。変なところで何かとつながっている感じがした。


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大根仁監督の(中略)観る会@出町座、ストップ・メイキング・センス@京都みなみ会館 [音楽]

ゆら帝の解散直前の日比谷野音ライブDVDの上映会が、大根監督のトークショー付きで出町座で開催され、行ってきた。そのDVDは所有していて2、3回は観てますが、ゆらゆら帝国のライブ映像を映画館の優れた音響設備で観ることができる機会を逃す訳にはいかない、という思いにかられ、しかも大根監督自身の話が聞けるというのも興味をそそられた。

このイベント「大根仁監督の自他共に認める(だけど普段は上映されない)傑作をみんなで観る会」は二部構成。第一部がゆら帝日比谷野音Live、第二部がスチャダラパーの「スチャダラパーの悪夢」。せっかくなので両方予約した。

まずは第一部のゆら帝。この作品がライブ映像として傑作なのは二重の意味があって、一つ目は、このロックバンドの解散直前、最高到達点にある3人のライブパフォーマンスが味わえる音楽作品として。そして二つ目はそのライブパフォーマンスをユニークな映像センスで切り取り編集してみせた映像作品として。

夕闇が到来する直前の野音の空から、野音に集ったオーディエンス達の様子へと、そしてステージ上のゆら帝の3人の姿へと緩やかにパンしていくカメラ、それに重なる穏やかな「星ふたつ」で幕を開ける本作。その次の「ソフトに死んでいる」でギアシフトし、不穏な熱気が湯気のように映像の中に充満。「アーモンドのチョコレート」や「夜行性の生き物3匹」のような分かりやすいロックナンバーは言うまでもなく、「タコ物語」「無い!!」のような変則的ミディアムナンバーにおいて、よりいっそう、このバンドが到達したアンサンブルの音楽的凄みを堪能する。いつの間にか日が暮れていて真っ暗になっている。時間軸が少しずれてしまったような感覚に囚われる。

月並みな見解だが、ゆらゆら帝国を孤高の存在にまで高めたのは、そのイマジネイティブかつユーモラスな独自の歌詞世界にあると思う。ただのファンタジーではなく、異界が日常と地続きにあることを察知し、その異界にアクセスしてしまう感性。その特異さこそ、坂本さんのリリックの強烈な個性である。

そしてそれが本作において、日比谷野音という舞台装置との相乗効果によって、よりいっそう際立つ。昼から黄昏時、そしていつの間にか夜に移行しているという野外会場の特性は、このバンドが持つ日常から異界への越境感覚と明確にリンクする。そして、ステージの背景にそびえ立つ官公庁のビルディングのオフィスの光、或いは日比谷公園の木々のシルエット。それら日常の光景をバックにしながらステージ上で繰り広げられている異形な音楽、その言い様のないギャップ。

同じ日比谷野音を舞台にしたライブ映像作品として、本作と同じくらいに、この場所の持つ特殊性を顕著にしてみせる作品が、クラムボンの日比谷野音ライブである。岩井俊二監督が(彼とクラムボンは「リップヴァンウィンクルの花嫁」つながり)パッケージングしてみせた去年の野音ライブDVDの方も素晴らしいのだけど、そちらではなく、2004年ごろの日比谷野音ライブDVDの方をやはり推したい。この映像作品で、彼らは完全に独自のポジションを獲得した、或いは、その事を広く周知する事に成功した。そしてそのライブ作品において顕著だったのが、日比谷野音という場所が有する日常と非日常の越境性と、クラムボンの音楽との間の強い親和性であり、化学反応だった。

そのクラムボンDVDの方では、会場を埋め尽くすような圧巻のシャボン玉光景によって、そのことが強く視覚化されていたのだけど、このゆら帝の本作においてはそれは、やはり、このバンドの代名詞と言える、坂本さんのギター(それとマラカス!)にある、と言えようか。

とにかく名演に次ぐ名演なんだけど、すごく変なカメラワークが時折インサートされ、それがまた本作の異界感を際立たせる。首から上がカメラのフレームの外に出ていて写っていないカットとか、不自然にフラフラと左右移動するカットとか。虫の視点のような魚眼レンズとか。

上映後の大根監督の話によると、撮影当日は大根監督は、予算の都合で、モニター無しの状態だったとのこと。カメラクルー達に大まかな事前指示は出していたものの、実際には個々のカメラマンが現場で勝手に撮影し、編集でそれらの撮影素材を切り貼りして繋いでみせた、とのこと。つまり現場で大根監督が全てコントロールしていた訳ではなく、それが結果的に良い方に転んだ(というよりそれを楽しんで編集した大根監督のセンス)、という。そんな非常に興味深い裏話を聞けただけでも、今日は来た甲斐があった。

ちなみに、本作の中で監督自身が一番気に入っているナンバーは、「無い!」とのことだった。
私は「ロボットでした」でした。

なお、ゆら帝はもう一作野音ライブDVD を出しており、そちらも傑作なので、両方おススメする次第。

さて、第2部の「スチャダラパーの悪夢」。こちらは、なんか大人の事情とやらでソフト化されておらず、上映されること自体が非常にレアな作品。SDPの全国ツアーにカメラが同行する形で、オフステージにおけるSDPの3人(プラス、第4のメンバーと言って差し支えないロボ宙、それにマネージャーやスタッフたち)の様子をドキュメントするパートと、ステージ上の彼らのライブパフォーマンスを捉えたライブパートを交互に見せていく構成。

ライブパートの音響的迫力はさすが!、なんですが、ドキュメンタリーパートこそが本作「スチャダラパーの悪夢」の骨子となっていて、どのような悪夢が展開されるのか、については、ただのネタバレになるので書かない。まあ、ネットで検索すればどっかに書かれていると思う。根本的にふざけてます。リリー・フランキー、ピエール瀧、山下敦弘監督といったゲスト陣(ライブパートではbirdとか)の出現も楽しかった。

上映後には、本作における狂言回し的役割を演じる岡宗秀吾氏と大根監督とのトークショー。それも面白かった。結構キワドイ話もあったりした。


話は変わって、本当に惜しまれる京都みなみ会館の閉館。私が映画好きになったのは、20代半ばでこの映画館に出会ってしまったせいである。

閉館前の1週間は特別上映プログラムが組まれ、日替わりで、過去にみなみ会館でかかった映画の中からセレクトされた38作品が日替わり上映された。その中で、RCS時代のみなみ会館を語る上で最重要作品といえる「ストップ・メイキング・センス」が、閉館1日前の金曜日の夜、という、非常に意義深い時間帯でセレクトされ、私は未見だったので観に行った訳ですが、この作品は多くの古参京都みなみ会館ファンにとっては思い出深い作品なのだろう。金曜の夜という時間帯のせいもあるけど、閉館を惜しむお客さんで満席だった。

デヴィッド・バーン率いるトーキングヘッズの超絶ライブパフォーマンスを映画化した本作。コレが、本当に見事なライブ作品で、一曲目の、まだ若々しいデヴィッド・バーンが、アコースティックギターとラジカセを抱えたスーツ姿で一人で登場し、寂れた倉庫街のようなセットとリズムボックスによるビートをバックに、ギターを弾きながらノリノリで歌い踊る一曲目のサイコキラーから、目が覚めるほどに抜群にカッコいい。カッコいいという形容詞が、本作のデヴィッド・バーンにピッタリである。

トーキングヘッズの曲を全然知らない私でも最初から最後まで楽しめる傑作。アフロっぽい人力反復ビート、パーカッションやコーラス隊を従えた豪華なバンド編成とデヴィッド・バーン含む演者たちのダンスによって獲得された祝祭性は、彼らの後世への影響力の高さを強く実感させた。唯一知ってた曲は、ショーンペンがゴスなロックスターとなってナチハントに出かける映画の中で、デヴィッド・バーン自身が歌ってた「This Must Be The Place」。この「ストップ・メイキング・センス」でも中盤で披露されるこの曲、改めて、本当にいい曲だ。ふと、YMOの影響があるのかも、と思ったりした。

翌日にクローズしてしまう京都みなみ会館、そのスクリーンの中に広がる、40年前の狂騒のステージ。それはそれで感慨深いものがあった。その最終公演、私は最後の最後で間に合った。
この作品を見ながら、先日観たゆら帝ライブDVDのことをふと思い出したりもした。映画館でこれらの音楽ライブ作品を体感することの満足感と余韻。どちらのバンドも今は存在しない。そんなことを考えると、その最高到達点のライブがこうして見事にパッケージングされていることの奇跡を感じる。

映画館で音楽ライブ作品を楽しむのも、また一興。



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