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それぞれのシネマ、楽日、イリュージョニスト [映画]

京都みなみ会館が3月末で閉館した。正確に言えば、移転先(発表まだ)で営業再開するまでの、一時閉館である。

閉館前の1ヶ月間における特別企画目白押しのスケジュールは、疾風怒濤と言いますか、軽く常軌を逸していた。まさに最後のお祭り。ミュージシャンと映画の対バン企画「マッチアップシアター」、「カナザワ映画祭 in 京都みなみ会館」、「京都みなみ会館さよなら爆音上映」、そして京都みなみ会館と言えば、な、週末のオールナイト(毎週)に「市川雷蔵映画祭」、怪獣映画特集も。そして閉館1週間前の全38作さよなら興行。とにかく、気合の入りまくった、最後まで全力疾走の1ヶ月間のプログラムだった。カナザワ映画祭は行って見たかったなあ。

移転するまでの一時閉館とは言え、あのパチンコ屋(いつのまにかパチンコ屋は閉店していたけど)の2階、あの狭い階段を登った2階に広がる、あのどことなく昭和の面影を今に残しているロビーの空間、狭いトイレ、これまでこの映画館を訪れた俳優達や映画監督達のサインで埋め尽くされた緋色の扉、独特のスロープ構造を持つ観客席。そんな愛着の染み付いた京都みなみ会館という空間は、その歴史に一旦幕を閉じた。

もちろん、看板とスピリットが引き継がれていく限り、歴史が断絶してしまう訳ではない。場所は場所でしかない。建物の老朽化をはじめ、様々な事情を考慮した上での経営判断なんだろうし、例えば階段でしかアクセスできない点なんか、バリアフリーの観点からは結構致命的な欠点だったと思うし。
ファンとしては、新しい場所での営業再開を心待ちにするばかりである。

私が映画にハマったのは、間違いなくこの映画館のせいである。正確に言うと、この映画館とMOXIX橿原の2館のせいであり、この映画館で出会った「ジョゼと虎と魚たち」「血を吸う宇宙」「トーク・トゥ・ハー」の3作品、そしてMovix橿原で出会った「ブルークラッシュ」という作品のせいである。
ハワイを舞台にした青春サーフィン映画である「ブルークラッシュ」では、映画館で映画を体験することのディープな疑似体験性の快楽を知り、みなみ会館で観た3作品では、「ジョゼ」では映画という時間に身を委ねることの心地良さと胸のざわめきを、「血を吸う宇宙」では何でもいいんだ面白けりゃ、という映画の自由さを、そして「Talk To Her」では自分の想像やモラルを超えたストーリーテリングがもたらす衝撃や余韻の深さを、私は知った。

徐々に様々なジャンルを横断するように映画館で映画を観るようになった。とにかく気になった映画があれば実際に劇場に足を運び、お金を払い、暗闇の中で椅子に身を沈め、目の前の大きなスクリーンに広がる世界に身を委ねるのである。そうしないと、その映画が自分にとって傑作なのか凡作なのかどうかは分からない、という単純な思い込みは、そのうち確信となった。壮大な宝探しの感覚。それはジャンルも国もあまり関係なかった。
映画館で自分にとっての傑作と出会うことの楽しさは、京都みなみ会館というハコで見つけた小さな宝物であり、だからこの場所を勝手にホームグラウンドのように感じた。

ちなみに、Movix橿原の方は、地方における映画館の衰退の波の一例というか、2014年にクローズ。しかし2015年末に4DXを有するユナイテッド橿原として復活し、今も営業継続している。奈良で割とマニアックな映画を上映していたりするので、たまに行く。(相変わらずお客さんが少ないので心配ですが・・・)

最終週のさよなら公演のプログラム、私も数本、これぞ!と思った作品を選んで観に行ったのだけど、中でも、最終日のラスト3本、「それぞれのシネマ」、「落日」、そしてシークレットの最後の作品、を続けて観ることができた事は、この空間に対する惜別の気持ちを自分の中で一区切りするうえで、本当に良かったと思う。

この日は土曜日ながら仕事で、仕事が終わった午後に職場からみなみ会館に直行した。
開演時間直前に到着し、既に満席状態だったので立ち見での鑑賞となった「それぞれのシネマ」。

これは世界中の著名な映画監督たちが映画館をテーマに制作した5分程度のショートムービー30数作品を集めた、カンヌ映画祭企画のオムニバスフィルム。日本からは北野武が参加した。とにかく1作1作の密度が濃く、5分くらいの長さでも1つ1つが「私が映画だ!」とそれぞれ自己主張しているような作品で、それがとにかく終わっても終わっても続いていくので、全部見終わった時の疲労感はなかなかのものだった。
個々の作品が終わればそのたびにエンドロールが流れるわけだが、その時に表示される監督の名前を見て、ああなるほどこの人だったか、と思うことが多かったのも面白かった。その最たるものは、アキ・カウリスマキとデビッド・リンチで、この二人に関しては「ああなるほど」ではなく、「やっぱりね」だった。最後に配置されたケン・ローチが、映画そのものをカジュアルに相対化してみせたのも、何か良かった。

言うまでもなく閉館最終日にこの作品がセレクトされたことは、非常に意義深いことだったと思うのですが、それを言うなら、次に上映された「楽日」(これも満席)は、言ってみればその究極的作品である。

「それぞれのシネマ」にも参加した台湾の鬼才ツァイ・ミンリャンによる2003年の作品。過去にも、みなみ会館のツァイ・ミンリャン特集上映の時に上映され、その時に一回観ているのですが、セリフが極端に少ない、全体的に画面がずっと薄暗い、その時は、途中からうつらうつら、記憶も途切れがちとなり・・・今回はバッチリ最後まで観た。

営業最終日を迎えた台湾の場末の映画館、その空間に紛れこんだ一人の日本人の姿を通して、映画館という空間の闇に潜む記憶の塵芥を惜別の念で映し出す本作を、最終日のラス前に持ってきたみなみ会館、まさに快挙である。天晴れ!と言いたい。この後に控える最終上映はシークレット上映、つまりサプライズな訳で、コンサートで言えばアンコールである。従って本作が実質的な最終作品と言っても差し支えないのだ。
実は日本語字幕版が見つからず、台湾にいる監督サイドから英語字幕版をわざわざ取り寄せての上映、とのこと。やはりこの劇場は心意気がアツい。

本作のラスト近く、最後の営業日(楽日)が終了して無人となった映画館の観客席を写し続ける、数分間の長回しに封じ込められた沈黙。そんなスクリーン上の映像を、スクリーンのこちら側にいる満席の私達が、万感の想いで見つめ続ける。かなり面白いことがこの時、京都みなみ会館で起きていた。そのことにかなりグッときた。これはちょっとした奇跡なんじゃないか、と思った。
スクリーンの向こう側にいる亡霊たちが、スクリーンというマジックミラーを通して、目を潤ませたりウトウトしていたりする、みなみ会館の楽日に駆けつけた満席+立ち見の私達を眺めているのでは、という想いに捕らわれたりもした。

ちなみに、本作の中で上映されている昔の中国の武侠映画は、少し前にみなみ会館で観たカンフー映画と同じはず。色々なものがつながってくるもんである。

そしていよいよ、最終上映となったシークレット上映。立ち見の人達にも床に座って観ることができるようにと、クッションがスタッフさんから配られている。
開演前の、満員のお客さんを前にした吉田館長による万感の想いがこもった最後の挨拶のあと、始まった作品は、何とフランス/イギリスのアニメーション「イリュージョニスト」。巡業の旅を続ける老手品師と、そんな彼を魔法使いと信じ込んで旅について行く女の子、そんな二人のハートウォームで少しビターな物語。

シークレットということで、私の事前予想はゴダールの「はなればなれに」だった。だってみなみ会館といえばコレでしょう。タイトルも何か最後っぽいし。といったそんなイージーな予想とかけ離れた意外なセレクトに驚かされつつ、こういう、さりげなく染みわたるようなエンディングでこの劇場の幕を一旦閉じるというのもいいものだな、と思いながら観ていた。この二人の関係性は、この劇場とお客さん(というか私)の関係性になぞらえる事ができるかも、とか思ったりしながら。
ちなみに多分この作品も過去にみなみ会館で観ている。いやこれは別の劇場だったかも。

そして映画が終わって場内が明るくなり、誰もがいままさに終わった時間を惜しむような表情を浮かべながら席を立つ。立ち去りがたい人々が狭いロビーにごった返している中、誰もいなくなった劇場の観客席を最後に一瞥した。そうして、もう二度と登る事はないであろう階段を下り、家路についたのだった。それほど感傷的な気持ちにならなかったのは良かった。

そういや、シークレットは「はなればなれ」ではなくて、「キッズ・リターン」もアリかもな、と思ってたら(あのラストシーンのセリフが、状況にピッタリじゃないですか)、その「キッズ・リターン」が「それぞれのシネマ」の北野武の作品の中で使われていて、ある意味、私の予想が変な形で当たったわけです。変なところで何かとつながっている感じがした。


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